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知人が死ぬことについて

こないだ、僕の雑感日記にこんなことを書いたのです。

人が死ぬこと

幸い、大学生になるまで、僕は人間の死というものを身近に感じたことがありませんでした。祖父が亡くなっているのだけど、僕が生まれた数ヶ月後だったので当然ながら記憶にありませんでした。以降、身内含めて僕の周りでは誰かが死ぬ、ということはなくって。せいぜい、小学校の時に飼っていた猫が死んだくらいでした(でも猫が死んだのはとても悲しかったのを覚えている)。

ただ、大学入学後から数人の友人が死んでしまいました。いや、友人と呼ぶ資格はないのかもしれないくらいの仲だったのですが(僕はそのあたりをとても遠慮してしまう)、彼らの死は僕にそれなりの衝撃を与えました。

知ってはいるけど遠いところにいる人の死というものは、とにかく僕を混乱させます。

彼らとは特別仲が良かった訳ではなくて。だから、仮に彼らが生きていたとしても何かを共にしたり、笑って話したり、お互いの悩みを吐露することはなかったと思います。下手したら、話す機会すらなかったかもしれない。そういう意味では、僕の生活において彼らの生死は実際問題としては特別関係がないとも言えます(不謹慎だけど)。

ただ、死んでしまったことによって、その機会は永久に失われたのです。生きていても結果は一緒だったかもしれないけど、死んでしまってはもう確実にない。
その事実が、僕をひどく混乱させたのを覚えています。

死とは、すぐそこに潜んでいる

亡くした友達の中には自ら命を絶った友人もいたのですが、大体は不慮の事故や突然の不幸によって命を落としました。こないだまで元気だった(らしい)のに、突然死んでしまうのです。

僕にはそのことの意味がよく分かりませんでした。なにしろそれまでの僕にとっての死とは、漫画や映画の中で起こるものだったからです。たいていの場合、その中で描かれる死はとてもドラマティックで、世界中のスポットライトが当たっているように見えました。

ところが、現実には人はあっさりと死ぬ。そこには伏線もなければドラマもない。ただただ、死ぬ。
そういうことが、この世の中にはあるのです。

死は僕に、影の形をした真っ黒な人を想起させました。彼らには顔はありませんが、大体が僕らとおんなじような背格好をしています、

そして彼らは僕らのすぐ側にいつもいるのです。彼らは、音を出さない。声を出さない。感情もない。そしてある時突然、僕らを静かに真っ暗な穴に引きずり込むのです。
もちろんその動作には無駄がなく、物音ひとつ立てない。本当にするりと、あっという間に僕らはその中に取り込まれる。気付いた時にはもう、僕ら自身も声を出すことができません。

そして穴に引きずり込まれた人の姿が消えてしまったその場所では、他の生きている人たちの生活が普通に営まれています。周りに人たちは何事もなかったかのように生きている。まさかそこで人がさっきまでいたなんて、誰も気づかない。

これらは、僕がただ単に感じた20歳前後の時の死のイメージです。妄想とも言えるだろうし、厨二病とも言えるかもしれない、ただのイメージ。

葬式の違和感

人の死について僕が次に感じたのは葬式の違和感でした。
上記の通り僕は故人たちとそんな関係性だったので、正直な話、悲しんだりする資格が僕にあるとは思えませんでした。実際、僕が感じていたのは「悲しい」ではなく「混乱」だったわけで、そんな僕がお葬式に出ていいものなのかどうか迷ったりもしました。

ただ、それはあくまで僕の問題であり、亡くなってしまった人を送り出す場所に僕の事情は関係ない。というわけで、お葬式には出席しました。

ところが、その場所では意外とみんな笑っていたりしているのです。ゲラゲラ笑うわけではないけど、着ている服が喪服だっただけでその他はいつもと変わらない。彼らのそんな姿を見て、僕は「あれ、人の死ってこんなもんなのかな」と思ったりもしたものです。だってドラマとか映画で見る葬式はみんな絶望的な顔してたからね。

もちろん、それはあくまで表面的な笑顔で、本当は悲しんでいるのかもしれない。明るく振舞っているだけなのかもしれない。ただ、器用にそんな風に切り替えができることが、僕にとってはちょっと違和感を感じてしまうのです。

人が死ぬというのは、大変なことだと思っています。人生、嫌なことや大変なことは山ほどあるけれど、それでも生きているということはものすごく意味があることだと思います。

僕は、人が死ぬということを自分なりに処理することがうまくできないのです。

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