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救いとか祈りについて考えてしまった。

恐山に行きました

今日、恐山に行きました。青森の下北半島にある日本三大霊場の一つですね。イタコとかでも有名です(でもイタコって恐山は何も関係ないんだって。知らんかった)。

ここでは地獄の様子が表現されていて、賽の河原とかがあります。山と湖に囲まれていて、温泉が湧いているから硫黄の匂いが立ち込めていて、所々地面から湯気が出ていて、なんとも不気味で不思議な世界。


死後の世界ってこういう感じで捉えられているんだなと思いました。

現実性のない存在を信じるということ

僕は霊とか宗教については特に信じていないのですが、そんな僕でもなんか神妙な気持ちになったり、命の儚さについて考えたりしながら恐山を一周しました。一周だいたい1時間くらいでした。

現代の日本で神仏をちゃんと信仰している人がどれくらいいるのか怪しいものですが、かつての人々は死者の魂とか神様の存在を信じていたんだと思います。そして時にそうした信仰心は権力者に利用され、貧しい人たちは権力に苦しまされながら日々の祈りを捧げていたのです。

そして僕は思うのです。姿形のない”神”の存在を信じるまで追い詰められる苦しみとはどんなものなのだろう、と。

宗教についてちゃんと知らない僕が語る資格はないと思いますが、日本の仏像とかって目を閉じて、静かな表情を浮かべています。表情に感情がない。これを悟りというのかどうか分かりませんが、あまりに苦しく辛い日常を送る民はこの無表情な神仏に祈りと救いを求めていた。

そう考えると、仏像が無表情なのは強さであり、この世の理を超越した精神状態を示しているんだろうなと感じました。

広隆寺の弥勒菩薩の前で考えたこと

僕、この夏に京都を一人で自転車で一周しました。その時に、太秦にある広隆寺を訪れました。弥勒菩薩で有名なお寺です。

引用:https://hanakari.exblog.jp/5560436/

【初心者向け】京都市内レンタサイクルをしてみた感想ー前編 | Strobolights
僕が旅に出る理由は大体100個くらいあって。 そうだ、京都行こうー。 と思ったわけではないのですが、出張の合間に京都を満喫しよう、と思ったのです。 僕にとってはこの夏は30代最後の夏になるのですが、20代で最も良い季節=大学時代を過ごした京都を振り返る事で、30代の総括をしよう、と。まあ、あんまいい時期じゃなかったので。30代。 その辺りのことは僕の日記サイトに書いております。 http

広隆寺は初めてじゃなかったのですが、何かこの時、この弥勒菩薩の前で腰を下ろしてじっと見つめながら物思いにふけってしまったのですよ。

やはりこの時も考えたのが、「人は何故、救いを求めるのだろうか」ということ。

当然ながら辛いから救いを求めるし、祈るわけです。この世の理を超越した存在に、いつか救われたいとひたすら祈る。科学技術が発展していない時代とはいえ、こうするしか他になかった。

歴史を見る限り、残念ながら彼らの祈りが報われた事はほとんどありませんでした。貧困、戦、災害に翻弄され、救いも虚しく命を落としていく人が圧倒的に多かったはずです。

それでも祈る。人は辛いときには祈るのです。

僕たちには神様はいない

昔に比べたら、現代の僕らの苦しみは大したことありません。だからなのか、人智を超えた存在に救いを求めることを僕らはしません。

でも、心の拠り所となる存在は誰にでもあるのではないでしょうか。

ある人にとってはそれは家族や恋人かもしれないし、ある人にとっては趣味だったりします。
スポーツ選手やアイドル、はたまた二次元のアニメのキャラクターかもしれない。

僕らは神様をもう必要としていない。でも、神様と同じ役割を果たしている存在は今でも誰の心にもある。
逆にそうした存在を持たない人は、辛い局面に陥った時にとことんまで落ちてしまう。

”信じる”という事は僕らを強くします。
昔の人はその対象が神様しかありませんでした。でも今はあらゆる物事に信仰が宿っている。そういう意味では、日本古来の八百万の神は現代にこそ存在しているのかもしれません。

・・・と、なんかいつもと全然違う事書きました。
意外といつも、こんなようなことを一人で考えています。

恐山、気軽に行けるような場所じゃありませんが、青森の下北半島に行く機会があればぜひ立ち寄ってみてください。

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