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ロックであることは恥ずかしいことなのか。

ロックは流行らないらしい

先日、ネットでこんな記事を見かけました。

ロッキング・オンの山崎洋一氏のコラムです。僕は学生時代は音楽雑誌といえばSNOOZER派だったから山崎洋一じゃなくて田中宗一郎派だったのだけど。ロッキングオンってまだ雑誌発売してたんだ、すごいな、というのが初っ端の感想。

まあ、それはいいとして。コラムの抜粋。

話はそれたが、ロックという言葉が最近ハブられているという話だ。
ロック・バンドも、今では「バンド」って言うしね。
「ロック・バンド」をただ省略して「バンド」になったのではなくて、明らかに「ロック」は意図的に外されたんだよね。
きっと、ない方がなにかと都合がいいんだ。

山崎氏曰く、マーケティング的に「ロック」は流行らない、という。ビジネス的に「最適化」を行なった結果、「ロック」と自らをカテゴライズすることが望ましくない、と判断する”アーティスト”や”バンド”が増えているのだとか。

そーか、ロックであることは流行らないのか。なるほど。

では、ロックとは何なのか。

ただこうなると考えなくてはならないのは「ロック」って何だ、という話。昔、radioheadが「ギター持てば誰でもロックバンドになれる」と思いっきりおちょくった歌を歌っていました。ギターとドラムとベースとヴォーカルがいて、それぞれが音を出して合わせれば、音楽文脈ではとりあえず”ロック”になるのです。
ただそれは、ロックファン、もしくはロックを自称しているバンドからするとロックではなく「ポップ」。そう、ロックって、音楽性のことじゃなくって、精神性、音楽用語風に言うと”アティテュード”のことなのです。

じゃあロックのアティテュードって何だ、と言う話。これについてはロックファンそれぞれに解釈があると思う。宗教のような共通した教典がなく、みんながそれぞれの正義を語る。まあ、それでいいと思うけど、僕にとっての”ロック”は「反体制」です。

よくギターを男根と見立て、「ロックとは自己主張の音楽」と表現されることがあるけれど、自分を取り巻く環境や世界を良しとせず、ただひたすら「I」をシャウトする。それこそがロックだと僕は今でも思う。

まあだから、ロックフェスティバルって個人的には違和感なんだ。みんなで肩組んでラヴアンドピースってするのは、ロックなのかなあって。野外で好きなバンドの音楽をただひたすら生音で聞くことができるのって滅茶滅茶楽しいだろうなーと思いつつ、フェスはフェスであって、ロックじゃないんじゃなしら、と。

まあ、それはいいとして。話を戻すと、ロックのアティテュードって、ある意味わがままだし物分かりが悪いガキの精神なのです。だからロックバンドはハチャメチャでも許されるし、欲望のままに我が道を行く生き方に、僕らは憧れてたのだ。去年から騒がれてるゲスの極み乙女なんて、”ロック”の文脈から語ると大したことでも何でもないのです。

ロック少年はやがてジャズへ

ただ、もうそういうの、流行んないんだって。ドライでクールに、合理的に生きるのが流行るんだってさ。だからロックは流行らないんだ。シティボーイはさらりとしたポップミュージックを好む。ちゃんと整頓されてきちんと収まる予定調和的な音楽。ロックみたいに、激しく自己主張する必要なんて、ない。ただただ黙々と、自分の世界を突き詰めて行く。そう言うのが流行ってるみたい。

ロックにハマっていた少年は、やがてエレクトロニカの耽美な魅力に気づき、ハウスやテクノに傾倒していく。そして大人になると、ジャズに移ろい変わって行く。がむしゃらに自己主張をすることだけが、自分の在り方じゃないと気づいて行くのだ。実際僕も、最近のロックバンドのロックミュージックって全然聴かない。僕自身の価値観が変わってきているからだと思う。

でも、それでもやっぱり、世の中に対する鬱憤やネガティブな感情や、くそったれな自分を情けないと思ってシャウトするロックミュージックは僕の中で鳴り続けて欲しいと思う。だってその生き方自体が「流行らないから」って言われちゃったら、頑張れないじゃんねえ。

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