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小説版『言の葉の庭』を読んで感じたこと。

「君の名は。」が未だ快進撃を続ける新海誠の「言の葉の庭」の小説版を読んだ。
なお、言の葉の庭そのものの感想は以前書いたのでそちらに譲る。タイトルに「足フェチ」とか書かれているが気にしないで欲しい。


▶︎【新海誠全作品一気見】言の葉の庭を見た感想ー足フェチ歓喜の巻


まあともかく、小説版だ。
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小説版言の葉の庭、映画版との違い

「違い」とつけたが、原則的には同じ物語だ。ただ、もはや新海誠作品は定例行事とも言えると思うが、映画版の物語を補強する形で、あらゆるエピソードが加えられ、登場人物の心の機微がぐっとわかりやすくなってキャラクターへの愛着が一層湧き、また映画ではよくわからなかった物語の筋が浮き彫りになる。

新海誠作品における小説版は、スマホゲームで課金したら新しい機能が使えるようになったりする感覚に近い(か?)。

実際のところ、映画版を読まずに小説版だけを読む人っているのだろうか。少なくとも僕はそういう入り方はしない。だから、純粋に小説としてこの作品がどうなのかは正直わからないところがある。

というわけで、失礼ながら「映画を見た」という経験ありきで成り立つ小説な気がする。

また、これは個人的な意見だが、新海誠監督って最近メディアに出まくってるわけですよ。で、小説読んでるとどうしてもあの人の顔が散らついてしまって物語に没入しきれない自分がいることに気づいた。
特にこの「言の葉の庭」は情緒あふれる雨の日の新宿御苑が舞台なわけで、古典をモチーフにした展開など、いちいち繊細で流麗美的な世界観を持つ作品だ。
それなのに、新海誠さんはお世辞にもスタイリッシュで中性的なイケメン、とは言えない。どう見てもおっさんだし、どちらかというとスタイリッシュとは対極の風貌をしていらっしゃる。正直、言の葉の庭の美しい世界観の中にいるように思えないのだ。登場人物のセリフ一つ一つを「これ、あのおっさんが書いてるんだよなあ」と想像してしまうのだ。

というわけで、新海誠さんのことを全く知らない状態で読みたかったなあ、というのが本音。

登場人物の彩りは豊かになる

ただ、キャラクターへの感情移入度は確実に上がる。前述の通り、46分という短い尺の映画版では描かれなかったエピソードがふんだんに盛り込まれ、映画と同じ物語なのに、奥深くなっているのだ。

特に雪野と孝雄という主人公たちの人物像の広がり方は半端じゃない。映画版が嘘のよう、というか別人のようにさえ感じてしまう。

ただなあ、孝雄くんが雪野先生に恋焦がれるのはわかるんだ。年上で、美人の女性だしね。小説版には、雪野は相当な美女のような描かれ方をしているのだ。しかも、言の葉の庭の名シーンだが、孝雄は雪野の素足を手にとって重みや形を図っているのだ。10代の童貞男子のトラウマにもなりかねない事態な訳だ。彼はおそらく、この後ずっと足フェチとして生きるに違いないのだー。まあ、それはいいとして。

そうそう、孝雄が雪野に恋するのはわかる。でも、雪野が孝雄に恋するのがいまいち腑に落ちない。雪野は精神的にハードな時期だったとして、心の密かな拠り所になっていた「雨の日に出会う少年」に、恋するだろうか。

男女間の恋愛の始まり方

落ち込んでいるときに誰かに優しくされたりして、その相手にかすかな恋心を覚えてしまうのはなんとなくわかる。ただなあ、僕の場合に限ってかもしれないけど、そういう恋心って大抵ちょっと勘違いというか、いっときの気持ちの高揚なだけで、「本当に好きか」と言われるとなんかちょっと違ったりして、仲良くしてる時はいいけどちょっとした喧嘩とか行き違いがあったときに一瞬のうちに壊れてしまったりする。

勿論きっかけがそれだっただけで、その後愛が深まっていくこともあると思うし、映画版も小説版も、二人のその後ははっきりと明示されていない。高雄はイタリアに飛び、雪野は四国に帰る。そして、数年後に再び再開するところで物語は終わる。

その時に二人が何を感じるのかわからないけど、もう一回そこからリスタートってことなのかな。

映画版は46分という短い時間だった。この小説版を、あの綺麗な映像でもう一度制作してほしいですな。雪野と高雄のその後も含めて。二人のその後がどうなるかがとても気になるくらい、小説版読むと二人が愛おしくなるのだ。

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