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村上春樹「ノルウェイの森」を読んで思う、愛や死について

さて、世はクリスマスだ。クリスマスといえばサンタクロースであり、もみの木であり、子供が胸を躍らせながら枕にスペースを作って眠る夜であり、カップルが愛を語り合う夜であり、赤と緑である。

そして、赤と緑といえば村上春樹のノルウェイの森である。ノルウェイの森は「恋愛小説」として語られることもあるからクリスマスにぴったりなのかもしれない。でも本当はこの小説は恋愛小説でもなんでもない。ただ、何の因果か、僕はクリスマスの日にこの小説を実に十年ぶりに読み終えてしまった。1週間くらい前から風呂の中で少しずつ読み進め、今日、読み終えたのだ。

久々に読んでいて気づいた事がある。この物語は、主人公である「ワタナベ」が37歳でハンブルグ空港の機中で「ノルウェイの森」を耳にするところから始まる。そう、僕も今、37歳なのだ。高校時代で初めてこの本を読んだ時、僕はこの小説の「ワタナベ」があらゆる女の子と寝るシーンを見て「大学生になったらこんなに簡単にセックスするもんなんだ」と思っていたものだ。そして気づいたら学生時代のワタナベの年齢を超え、学生時代を振り返るワタナベと同じ年齢になっていた。

と言うわけで、いろんな因果で僕はこのタイミングでノルウェイの森に再会した。初めて読んだ高校時代から何度となく本棚から引っ張り出して読んできた本であり、10年ぶりにこのタイミングで再会したのには意味があるのだ(と、思うことにする)。

別に僕が改めて指摘する必要もないのだけれど、この小説は「生と死」について描かれている。よく勘違いされる「純愛小説」ではない。まあ、出版社自ら恋愛小説と売り出してるのだけど、これを読んだ人が「純愛だわ〜」と思ったのだったらちょっと神経がおかしいと思う。この小説において恋愛は、生きることの切なさと死ぬことの悲しみを表現するためのツールでしかない。

今はそうではないらしいけどいっとき、この小説の帯には「愛して。」と記されていた。この小説は恋愛小説ではないが、それでも「愛」について、そして「死」について書かれている。

別に書評でもないけども、死と愛について書いてみようと思う。クリスマスだし。

すぐそこにある死

身近な人が若くして死んだ事がある人なら、この小説の持つ乾いた絶望感に既視感を覚えるはずだ。

僕は何人か、友人・知人を亡くしている。友人は事故で亡くなり、また別の友人は錯乱して母親を刺した後に飛び降り、知人は突然脳内で血管が破裂して両親がいるすぐ横の部屋で一人で死に、かつてお世話になった人は出張先のビジネスホテルで静かに首を吊った。

彼らは一様に、生涯を全うしていない。言ってしまえば「突然」死んだ。いや、僕からすれば「死んだ」と言うことはよく理解できていないので「突如いなくなった」と言う感覚に近い。

村上春樹の小説にはノルウェイの森に限らず「死」が登場してくるのだけど、彼の描く小説のように、現実に起こる”死”は全くドラマチックじゃない。小説に限らず漫画でも映画でもいいのだけど、人の死は必要以上にドラマチックに演出されて描かれる。だが、本物の人は全く普通に死ぬ。まるで予定されていたかのように、スイッチを押すと電気が切れるように、当たり前のように普通に死ぬ
この小説にも出てくる言葉を借りると「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」であり、死ぬことは何ら異常事態ではない。だがしかし、取り残された僕らはその事実にうまく対応できない。そうして、やるせない気持ちと行き場のない後悔と深い傷を胸に抱えながら生きることになる。

愛とは認めることだと思う

「愛」について37歳にもなって語るのは何だか妙に気恥ずかしい。でも、この歳になったからこそ感じることがある。ここでいう「愛」は異性間の愛情に関してのみ書く。

「好き」と「愛」は違うのか。結論から言うと、僕は違うと思う。と言うか、最近そう思う。「好き」や「恋」が一方的で相手に対して深く激しく突き刺さるのに対し、「愛」は相手を包み込むようなイメージだ。

つまるところ、”愛する”とは相手の存在を肯定することだと思う。人間というのはなかなか厄介な生き物で、どんなに恵まれていても時々ひどく孤独になったりする。誰かに認知してもらえないと、自分がこの世界から断絶されたような感覚を覚えてしまうのだ。特に辛いことがあったわけでもないのに「寂しい」と人は感じてしまうのだ。そして誰かに愛されるということは、この世における存在証明を得ることであり、存在を肯定されることであり、認められることなのだ。だから僕たちは、誰かに愛して欲しいと願う。
そしてまた、誰かを愛することによって、自分もこの世界に居場所を見つけることになる。

死と愛について

誰からも愛されず、誰も愛すことができないと、人はこの世界から断絶される。そうして時に、この世で生きる意味を見出せず、自分で自分の命を絶つ。ノルウェイの森の象徴である直子は昔の恋人「キヅキ」を失ったことによって人生における何かを損ねてしまった。恋人が自ら命を絶ったことによって自分は「愛されなかった」という烙印が彼女の存在に深く刻まれたのだと思う。しかし同時に、キヅキも直子に愛されなかった。キヅキが何故死を選んだのかはよくわからないが、彼は直子と宿命的に一つになれなかった(セックスのことです)事によって、自分の持つ孤独に見切りをつけたのではないかと思う。

そして主人公である「ワタナベ」は直子のことを愛そうと思った。しかし、悲しいかな彼は愛し方がわからなかった。彼なりに一生懸命自分の想いを誠実に彼女に伝えようとしていたのだが、まだ若い彼が癒せるほど、直子の絶望的な孤独は浅いものではなかったのだ。でも、それでもその思いは直子をかろうじてこの世界に繋いでおくことには成功していた。「ワタナベ」は、消えようとしていた直子を踏みとどまらせる、未練のような存在だったのだと思う。

しかし直子は、ワタナベによってかろうじて繋いでいた命を、突然自ら絶つ。ワタナベが緑という別の女性に愛情を感じたからだ。と言っても、直子が緑のことを知ったという描写はない。でもそれは、聞いたかどうかというレベルの話ではない。聞いてなくても「そう感じた」のだと思う。そして彼女は、もうこの世界に自分を繋ぎ止めておくことは何もない、と知って実にさっぱりと、心置きなく死ぬのだ。

それは多分、遅かれ早かれそうなったのだと思う。どのみちワタナベでは、直子を救うことはできなかった。ワタナベがどれだけ愛しても、直子の傷は癒せなかったのだ。

生きること

生きていく上で、僕たちはいろんなものを捨てていく。実質的に、出会いと別れを繰り返していく。その別れに意味を見出すかどうかは人によって異なるとはいえ、人生において別れないものの方が少ないだろう。

「死ぬ」ことは生の一部だとしても、現実的に生活できているうちは死ぬことを自ら選ぶことは決してない。だが、僕らは時としてあっさりと「あっちの世界」に取り込まれ、自ら死を選ぶ(村上春樹の小説で何度もモチーフになる概念だ)。
そうならないために、僕らは誰かを愛さなくてはならないし、同時に誰かに愛して欲しい。

愛するとは、その相手に存在理由を与えることであり、同時に自分をこの世界に定着させることを肯定することだ。
君にいてほしいし、僕はここにいていい、そう思えることなのだ。

そんなことをぼんやりと考えるクリスマスだった。

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